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常連さんのリレー連載 「本を繋げて」 第41回 特別編

豊文堂書店の常連さんが書き手にまわる 「本を繋げて」 という連載コラムを設けました。
本に魅入られ、ときに格闘しながら、歩みをともにしてきた方々が、とっておきの話を持ち寄ってくださいます。
いずれも広い意味での 「発見」 にまつわる物語になるでしょう。
本を繋げて人を繋いで、読書の愉しみ、探書の悦びが少しでも身近になりますように。


 「本を繋げて」 の特別編として、根室市在住の福田光夫さんによる 「泉川駅史考」 (先行公開版) を掲載いたします。

 北海道東部のとある駅と町のかかわりを見つめた貴重な論考であるのは勿論のこと、 福田さんの少年期の幸福な思い出と結びついた、これだけは書き残しておきたいという使命のようなものがお分かりいただけるかと思います。

 また、本編がこの時期に発表される背景には、 JR北海道が北海道新幹線開通の裏で進める赤字路線の廃止検討策への懸念も見てとれるでしょう (福田さんは3月下旬に廃止される花咲駅の駅史を現在編纂中とのこと。 追記: 『花咲駅史 1921.8.5-2016.3.25』 は2016年10月初旬に刊行されました)。

 ※ 画像はクリックすると拡大できます。


 第41回 特別編 「泉川駅史稿 (先行公開版 2015.1.6 現在)
                                                          福田光夫 ・ 文


  ■はじめに

 平成元 (1989) 年4月29日、根釧台地の発展を支えてきた標津線が廃止された。 人々の夢や希望、あるいは絶望を運び続けた標津線の全貌は、個々の記憶や映像類、 同年に発行された 「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 等をもって、今も語り継がれてきている。
 そんな標津線の駅のひとつに 「泉川駅」 がある。 正真正銘、本物の僻地にあった駅である。 この駅に愛着を感じている人たちは、当時、住んでいた人たちか、秘境駅として訪れたことのある特定の鉄道マニアしかいないだろう。

平成元年4月29日の泉川駅。(クリックすると 拡大します)

 「泉川駅」 のあった市街地は戦後、急速に発展し、急速に萎んでいった特異な歴史を持つ。 今は、市街地部分は消失し、点在する酪農家が泉川を支えている。
 まだ市街地が少し残っていた昭和40年代に、父親の転勤の都合で、 小学校2年から6年生までの5年間、駅の近くに住んでいた者が駅史をまとめてみた。

 私は、昭和49 (1974) 年3月に廃校となった泉川小学校、最後の卒業生8人のなかの一人であったことを先に書いておく。
 泉川小学校の校歌は 「根室広野の樹木 (きぎ) あおく…」 で始まる。
 「泉川駅」 とは、そんな場所に、ポツリと出現し、ひっそり消えていった。 戦後70年のなかで辿った 寂しい駅の物語である。


  ■標津線の全線開通

 「泉川駅」 を語る前に、標津線全体のことを簡単に解説する。
 標津線は 「標茶駅」 と 「根室標津駅」 を結ぶ横の線 (69.4km 全線開通前は標茶-中標津間を標茶線と呼称) と、 「中標津駅」 と 「厚床駅」 を結ぶ縦の線 (47.5km) がT字状になっていた。 根釧台地に入植した人々の動脈路として、生活や産業を支えてきた。

「中標津西別間鉄道開通記念ゑはがき」袋の表紙。(クリックすると 拡大します)

 昭和9 (1934) 年10月発行の祝標津線開通記念 「新根室41号」 によると、 大正10 (1921) 年に根室本線が根室駅まで開通するや、直ちに本格的な標津線の建設運動が始まった。 翌大正11 (1922) 年4月法律第37号鉄道敷設法中に 「根室厚床附近より標津を経て北見国斜里に至る鉄道」、 即ち根室原野縦断鉄道が予定されるに至った。

 最初に開通したのが、「厚床駅」 と 「西別駅」 間で、昭和8 (1933) 年12月1日に開通した。 次いで 「西別駅」 と 「中標津駅」 間が、昭和9 (1934) 年10月1日に開通し、縦の線ができた。 もともとは、「厚床駅」 から 「根室標津駅」 までが標津線の名称だった。 「標茶駅」 と 「中標津駅」 間の路線は、後で追加され、奥地の拓殖事業の推進に対応したものだった。
 次に 「標茶駅」 と 「計根別駅」 間が昭和11 (1936) 年10月29日に開通し、 「根室標津駅」 までの全線開通は、昭和12 (1937) 年10月30日のことだった。

 当時の標津村が発行した 「中標津西別間鉄道開通記念ゑはがき」 が手元にあるので、 袋の表紙と、封入されていた4枚の絵葉書を掲載した。 袋の表紙にある地図を見ると、標茶−標津間が開通していない。 標津線と関係のない写真もあるが、中標津地域の 「ご自慢」 が何であったのか、分かるので掲載した。 なお、鉄道マニアにとってバイブルの 「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 には、いずれも未収録の資料である。

中標津駅。(クリックすると 拡大します) 標津市街全景。(クリックすると 拡大します) 養老牛温泉。(クリックすると 拡大します) 農事試験場根室支場。(クリックすると 拡大します)

 全線が開通した際には、鉄道省北海道建設事務所が 「標津線標茶線全通記念絵葉書」 を発行している。 袋の裏面が建設要覧になっており、線路平面図1葉や絵葉書4枚が封入されていた。 こちらは 「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 にも白黒写真で掲載されているが、ここでは、袋の両面と絵葉書4枚を掲載した。

「標津線標茶線全通記念絵葉書」袋の表面。(クリックすると 拡大します)

 袋の表側の絵は、国後島に向かっていくようなSLの後ろ姿が旅愁を誘う。 まさか、その8年後、ソ連に不法占拠されてしまうとは、誰も予想はしていなかっただろう。 今見ると、何か苦難を暗示しているかのような図柄だ。 裏の建設要覧は、標津線の建設事情を知るための第1級資料である。

「標津線標茶線全通記念絵葉書」袋の裏面・建設要覧。(クリックすると 拡大します)

 (建設要覧は、標津線と標茶線に分かれている。なぜ、標津線に統一されたのか調査中)

 なお、私の手元にあるのは、線路平面図が欠落している。 地図を見たい方は、「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 を参照願いたい。 その代わり、この駅史のおまけとして、バイブルの方には未収録の 「尾岱沼の蝦取船」 絵葉書を掲載した。 「尾袋沼」 と誤植がある。 直接、標津線とは関係ないので、掲載しなかったのだろう。

根室標津停車場。(クリックすると 拡大します) 標津線第二標津川橋梁。(クリックすると 拡大します) 標茶線十六粁附近直線路。(クリックすると 拡大します) 尾岱沼の蝦取船。(クリックすると 拡大します)

  ■泉川の地域史と駅の誕生

 別海町と厚岸町及び標茶町の境界線近くあった 「泉川駅」 は、「標茶駅」 の東隣の駅となるが、 間には 「多和乗降場」 (標茶駅から2.6km) があった。 「泉川」 の東隣の駅は、昭和42 (1967) 年4月1日に、地域の請願によって開設された 「光進駅」 で、終始、駅員無配置だった駅である。
 「泉川駅」 は、標津線の全線開通から7年後の昭和19 (1944) 年5月1日、 まずは仮信号所として開設され、同27 (1952) 年3月25日、一般駅に昇格した。

 昭和19 (1944) 年5月1日には、標津線のなかで、もうひとつ仮信号所が誕生している。 「中標津駅」 と 「上武佐駅」 の間にあった 「東標津」 の信号所である。 海軍が建設を進めていた標津第1飛行場 (現在の中標津空港附近) に資材搬入するために設けられた臨時的なもので、 現場までの岐線もあった。 「釧路鉄道管理局史」 や 「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 によると、 終戦まもない昭和20 (1945) 年9月1日に廃止されている (同年11月2日とする文献もある)。

 実は、「泉川駅」 の前身も、軍事用として設置が必要になった臨時的な信号所だった。
 この経過を含め、泉川の黎明期から紹介しないと、「泉川駅」 を理解できないため、少々、脱線する。 それは、泉川という地名を、誰がつけたのかという謎から始まる。

 泉川の周辺は、もともとペロニタイ原野と呼ばれていた。 現在のどこから、どこまでがペロニタイ原野だったのか、よく分からないが、 松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図で附近を見てもペロニタイは見つからず、川筋の名ではない。
 そもそも釧路国と根室国の境界附近は開発が遅れており、長らく前人未到の原生林の原野でしかなかった。 旧軍馬補充部川上支部の牧区だったとも言われている。

 アイヌ語のペロニタイを直訳すると、おそらくペル・オロ・ニ・タイ (泉のある森林) となろう。 3つ股に分かれた先にある風連川の源流地帯であり、水源地として相応しい地名で、漠然とした広範囲な森林帯を指していたのだろう。 西別川上流の虹別に住んでいたアイヌの方たちが呼んでいたものと思われる。
 泉川の語源の出典は、旧国鉄がガイドブックとして発行していた 【北海道駅名の起源】 のようである。 昭和4 (1929) 年に発行して以来、版と改訂を重ね、手許にある昭和48 (1973) 年3月発行では、 「駅附近にわき水があり、この附近は古くから 「泉川」 と呼ばれていたので、そのまま駅名としたものである。 昭和19年5月1日仮信号所として開設され、同27年3月25日一般駅となった」 と紹介されている。

 泉川は古くからとあるが、製炭業を営む弟子屈の藤田常治郎氏が使用人の子弟のために昭和19 (1944) 年春、 ペロニタイ番外地に寺小屋を建築し、加藤某に学習指導させ、 傍ら別海村に学校設置の懇願をなす (泉川小中学校廃校記念誌より) とあるので、仮信号所と同時期に泉川小学校の前身ができている。
 当時、木材を求めて製炭集落とともに移動する 「炭焼き学校」 があったとされ、 泉川小学校は戦後入植によって、移動する必要が無くなった 「炭焼き学校」 だった。

 これらのことから、泉川に人が出入りするようになったのは、素直に考えれば、 少し遡った昭和5 (1930) 年から同6 (1931) 年にかけ開通していた殖民軌道標茶線 (標茶-両国-西春別間 約27.4キロ) が最初のことと思われる。
 両国は、釧路国と根室国の国境に因んだ駅名で、泉川駅の南西側にあったとされている。 標津線の標茶-計根別間の開通に伴い、殖民軌道標茶線は廃止されているので、 国有林の払い下げを受けて炭焼きを開始した使用人たちは、標津線を利用して、奥の泉川に入ってきたようだ。

 こうしてみると、泉川は、そんなに古くからあった地名でないことが判る。 しかも標津線のうち標茶-中標津間は、昭和8 (1933)年に測量が開始され、 標茶-計根別間は同9 (1934) 年2月に線路選定 (建設要覧より) されているが、 工事の第1区間 (標茶-菱川間 同9年5月工事着手)、第2区間 (菱川-西春別間 同9年8月工事着手) の計22.5キロと記載されている。

 ここで疑問符が出てくる。 「菱川」 とは、どこなのか?  私のなかでは、長い間、謎ではあったが、厚岸町の別寒辺牛川のことだった。 別寒辺牛川の源流も、泉川附近となっている。 ペカンぺは、アイヌ語で菱のこと。 何のことはない、和訳しただけの川名だった。 てっきり、工事を請け負った菱田組から付けた暫定的な地名と思い込んでいた。 もっとも川名を地名にしただけで、ある意味、暫定的な地名だったことは間違っていなかった。

 本線に戻ると、標津線、とくに標茶線は最低予算で作られた簡易線で、拓殖と有事軍用線を兼ねて、緊急的に作られた背景がある。 このため、原生林地帯を走る 「標茶駅」 「泉川駅」 の区間は、山や谷の地形のままに路盤を構築したという。 煙をあげ、あえぎながら走行するSLの撮影ポイントでもあった。

 泉川に信号所ができた背景とは、1000分の25という急勾配を経て、 約18分かけ、やっと到着する平地 (標茶-西春別間のほぼ中間) の地理的条件に、 当時、陸軍が建設していた計根別飛行場への資材搬送により貨車の増便が重なったことから、 列車回避と信号交換の必要性が生じてきたために設けられた。 これが軍事目的だった所以である。
 つまり 「東標津」 の信号所は錨 (海軍)、「泉川」 の信号所は星 (陸軍) のためのものだった。 隣接する地域に、なぜ両軍が別々に飛行場を建設しなければならないのかと、今となっては不思議に思うこともある。 しかし、それぞれの作戦に基づくもので、その詳細は別の史稿で編集中である。

 さて、泉川は、誰がつけたのか?  昭和17 (1942) 年にペロニタイ牧場に炭焼きに来た古老の話では、 「泉川という駅名も場所もありませんでしたが…」 (泉川開拓50周年記念誌) と証言している。
 どうやら泉川は、鉄道省の関係者が、昭和19 (1944) 年の信号所開設の頃に付けたのだろう。
 ペロニタイ牧場は、昭和10 (1935) 年頃より上西春別から西側に拡大していった広範囲の牧場で、 昭和16 (1931) 年、藤田製炭部により炭焼きが開始され、泉川小学校の前身となる寺小屋の建設へとつながっていく。


  ■泉川駅市街地の隆盛と衰退

 周辺地域を含む泉川の本格的な開拓は、戦後の旧満州等の引き揚げ者を救済する緊急対策の一環として始まった。 昭和23 (1948) 年3月から随時、入植し、泉川小学校の児童も爆発的に増えて行った。 泉川駅の格上げも、この事情による。
 当時の逸話として、泉川の入植地が標茶寄りで、別海村役場との事務手続きが不便だったため、 開拓指導者:中村孝二郎氏が、釧路支庁と根室支庁の境界線の変更を北海道庁開拓部に申し出たものの、 根室支庁の拒否により実現しなかった。 (原野に生きる―ある開拓者の記録 昭和48年11月発行より)。

 本当の泉川は、第1から第3まで区画され、泉川小学校の校下は泉川第2地区と隣接する西春別第3地区だった。 泉川第2地区は、さらに泉川駅周辺の市街北、市街南のほか、市街北の上に三角地帯と細かく分かれていた。 現在の第2地区で生活している方たちの先代は、戦後の食糧不足により、全国各地から入植した事情が多い。
 泉川第1地区と第3地区は、光進小中学校の校下である。 当時の小学生には、そんな複雑な構造が判らず、長いこと光進は、泉川とは別ものだと思い込んでいた。

 泉川駅周辺も製炭、造材の隆盛も極め、大きな集落が誕生、昭和33 (1958) 年11月19日には、駅舎もブロック造りに改築、 昭和34 (1959) 年から同35 (1960) 年ころのピーク時には、約70戸、約350人が居住したといわれている。 4軒の商店のほか、床屋、旅館、映画館、丸通、製粉所、パチンコ店等があった。
 ところが、木材資源が枯渇したため、生産量が激変、昭和36 (1961) 年3月31日には、 駅の貨物取り扱いが廃止され、住んでいた人たちも急速に離散していったという。


  ■泉川信号場問題

 泉川駅の黎明期、実は信号所から駅昇格に至るまでの過程には、驚愕な真実が隠されていた。 前出の 「東標津」 と同じ運命を辿ろうとしていた時期があった。
 昭和23 (1948) 年6月10日に発行された 「新根室」 (中標津村で発行された民間のタブロイド版新聞) に 「泉川信号場問題! 駅昇格へ猛運動起る」 の見出しを見つけたことで分かったものだ。 記事の内容を、そのまま掲載する。

昭和23年6月10日発行「新根室」。

 「開拓の中心基地として、また林業の新しい生産地として急速な発展を予想されている泉川信号場の駅昇格問題は、 今泉前札鉄局長も、その必要性を認識保証してくれたが、 局長が変わったトタンに同場の信号機や閉塞器の取り外しがどうやら決まったらしく、関係村や沿線各駅をアゼンとさせている。 そこでソンナ馬鹿な話があるものかと、このほどの輸送協力会中標津区の会合でも大きく取り上げられ、 関係者一丸となって 「施設の撤去はもっての外、直ちに駅に昇格させてほしい」 と猛運動を起すことになった。 この運動の急先鋒、中尾別海村長、横田中標津村長も近く出札、経済白書を提出、認識不足も甚だしいと抗議するが、 札鉄でラチのあかないときは中央まで陳情、あくまでその実現を期している、 これは単に同地の経済的な問題ばかりでなく列車の運行上にも大きく響き、とくに冬期間は一段と困難を増すことになるので、 駅関係も成行きを重視している」 とある。

 つまり、猛運動によって、信号場廃止を阻止し、さらに駅へと昇格させたのである。
 残念ながら、この史実は 「別海町百年史」 にも 「中標津町史」 にも、「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 にも出てこない。 もっとも、僻地の一駅の存亡など、記さなくても支障ないとの編集判断か、それとも埋もれていた史実なのか、今となっては分からない。

職員用最新鉄道路線図 (昭和27年初版 昭和38年6月改訂27版 交通協同出版社発行) より転載。(クリックすると 拡大します)

 掲載された 「新根室」 については、昭和22 (1947) 年7月1日に創刊号が発行、中標津町には、51号までしかなく、どうも以降は休刊のようだ。 念のため、中標津町教育委員会に照会したところ、51号までのうち、50号が欠落、泉川信号場に関する記事は51号にしかなかった。 つまり、猛運動の詳細は、推測の域となる。

 これらの情報を整理すると、次のような経過が浮かび上がってくる。
 終戦後、標津線にあった 「泉川」 と 「東標津」 の信号所は、用済みとなった。 「東標津」 は岐線ともども早急に撤去されたが、奥地の 「泉川」 は後回しにされ、そのうち撤去をと考えていた。 ところが、旧満州等からの引揚者を受け入れる緊急開拓地として、泉川周辺に入地する者が出始め、 信号所の維持、もしくは駅への昇格が持ち上がった。 今泉前札鉄局長は、信号所の存続を約束したものの、次の局長時代には、増便もないことだし、 当初の取り決めどおり信号所の廃止を掲げた。 そこに地元勢が反対運動を起し、最終的には泉川駅の昇格となったということだろうか。


 (左の画像は、職員用最新鉄道路線図 (昭和27年初版 昭和38年6月改訂27版 交通協同出版社発行) より転載)

  ■昭和44年から49年の泉川駅周辺について

 時は進んで、昭和44 (1969) 年4月、泉川小学校の教頭に赴任した父親とともに私は泉川で暮らすことになった。 舗装された道路はなく、てっきり学校裏の教員住宅かと思いきや、学校から1.2キロ離れた市街地の方にポツリと家があった。

 泉川駅の南側、歩いて2分ほど、家の前からは、汽車の出入りが一望でき、C11の蒸気機関車は身近な存在となっていた。 小学校沿革誌で確認すると、5つあった教員住宅のうち「小4号住宅」 12坪とあった。 もともと教員住宅として建てられたものではなく、かつては馬蹄屋だったようである。

 湧き水の泉川に相応しく、家の周囲は湿地帯で葦が生い茂っていた。 後に、すぐ横の小川の清流を利用して小公園を造成したり、冬には、葦を刈り取って水をまき、簡易リンクにして遊んだ。
 廃屋が目に付く周辺には、簡易郵便局、自治会館、駅の北側には商店が1軒あった。 駅の横の小高い丘の上には、国鉄の官舎が4棟あった。 寂れたとはいえ、駅を中心に数にして15戸程度の集落はあった。 稼動中の炭焼きは近くに1か所あり、中に入って遊んだ記憶もある。
 ここの5年間の暮らしのなかで、無くなったものは、商店、簡易郵便局、そして小中学校である。

泉川駅構内でのラジオ体操 昭和45年頃。(クリックすると 拡大します)

 駅の思い出を列挙すると、同じ転勤族なので、駅長はじめ駅員とは、家族ぐるみのお付き合いをしていた。 転校生として、駅員の子どもも友達だった。(もっとも、自分も転校生だったが)

 夏休みのラジオ体操は、「泉川駅」 の構内でおこなった。 盆踊りは鉄道官舎の広場でおこなった。 泉川市街地は学校が無い代わりに、駅が地域行事の中心だった。
 駅構内には、人用の踏み切りがあった。 商店が線路の向こうにあったので、駅構内を通って抜けていた。 通学も駅構内を抜けていたことも多かった。 勿論、入場券のないフリーである。 というか、駅員に顔見せするのが日課だったようだ。

 大きな買い物は、西春別駅前よりも、標茶の方が多かった。 床屋、病院も標茶だった。 鉄路のほか、林道を通れば、谷間づたいに標茶の市街地に乗用車で行けたからだ。 前述の殖民軌道標茶線跡の一部が、林道に転用されていた。

 当時も今も、泉川から標茶に行く普通のルートは、国道272号線に出て、中茶安別から向かうか、 逆に北側の弥栄の方から向かうか、どちらかしかなく、かなりの迂回である。
 それで、標茶に初めて一人で汽車に乗り、弟のために絵本を買ったことがある。 3年か4年生の時だった。 今で言う 「初めてのおつかい、鉄道版」 である。 「標茶駅」 は、今も変わらず、三角がモチーフ。 待合室で帰りの汽車を待つ心細さを、今でも思い出す。

キリギリスを贈る準備 昭和45年頃。(クリックすると 拡大します)

 泉川小学校の恒例行事として、春には列車の乗客にスズランを、秋になるとキリギリスを贈ってきた。 時期は、よくわからないが、駅構内の清掃もしていた。
 キリギリスは、野山で捕まえ、ビニールの袋に入れて、急行 「しれとこ」 の乗客にプレゼントしていた。 とにかくキリギリスやコオロギ、蝶を、たくさん採った記憶がある。 標本にもしていた。

 キリギリスのプレゼントはテレビニュースでも紹介された。
 昭和44 (1969) 年9月15日の敬老の日、NHKニュースの取材陣が来たときのこと。 キリギリスを捕まえるシーンがなかなか撮れず、苦肉の策として逃げないよう、体に糸を縛りつけて撮影した。
 父親の日記によると、放送されたのは、翌16日の朝7時台のニュースだった。 7時18分から始まリ、キリギリスを捕まえてから、駅のホームで乗客に贈るところまで紹介された。 糸が大写しという記載。 自分にも、まじめに捕まえる画面の姿に大笑いした記憶がある。

泉川小学校児童、最後のキリギリスを贈る 昭和48年秋 上りホーム。(クリックすると 拡大します) 泉川小学校児童、最後のキリギリスを贈る 昭和48年秋 上りホーム。(クリックすると 拡大します)

 また昭和47 (1972) 年発行の釧路鉄道管理局史の103頁には、 昭和46 (1971) 年のトピックとして 「よい子の善意で楽しい旅行」 の写真群のなかに、 「泉川駅」 の 「ビニール袋に入れてキリギリスをどうぞ」 が掲載されている。 白いワイシャツ姿の男性は、間違いなく父親である。 その後ろに、顔半分しか写っていない少年がいる。 半そで姿が多い中、父親と共に長袖である。 おそらく小学4年生の私かもしれない。 「よい子」 だった少年が、44年後に泉川駅史を作っている。

西春別農業協同組合設立20周年並事務所店舗落成記念誌から転載 昭和43年。(クリックすると 拡大します)

 (西春別農業協同組合設立20周年並事務所店舗落成記念誌から転載 昭和43年)

 次に父親の遺稿のなかから、泉川駅周辺と泉川小学校の歴史を振り返ったものを紹介する。
 昭和49 (1974) 年3月発行の別海町公立学校教頭会の会報誌 「眺望」 第3号に掲載された学校の紹介文である。 泉川駅市街地の辿った歴史が、わかりやすく記されている。


  《学校紹介:閉校となる泉川小中学校》
 別海町は広いとよく言われているが、東部は早くから開け本別海が別海町の始まりとはよく聞かされることば。 しかし、西部になると話はちょっとちがう。 平地の少ない、どこを見渡しても小高い丘。 通称、山の中といった感じを誰もが受ける。 今も走っている蒸気機関車が急な坂を上がるのに、あえぎあえぎといえば、どんなにかと思うだろう。 C11型のテンダ車よりもっと大きなD51ならと……とんでもない。 輸送量、そして線路ががっちりしていたらと、保線掛の人の声がはね返ってきた。 そんなことはどうでもいいのだ。 学校の紹介にとんだところでレールを間違え失礼しました。

 泉川小学校は、昭和19年、ペロニタイ原野 (名前がふるっている) の立ち木を払い下げ、 炭を焼く人たちの子弟を寺小屋の校舎で始まり、21年7月26日に年々児童がふえ、 上西春別国民学校泉川分校設置認可、27年11月15日小学校に昇格しました。 28年頃より児童数100名を越し、34年度には150名に達したほど戸数も多かったが、39年には88名と減少しています。 1年間に転校していく児童が20数名もいたのですから、当然のことでしょう。
 駅前には、商店や食堂、床屋さんなど、「まち」 らしい形もできましたが、今はその土台や跡を残すのみとなり、すっかり、さびれ果てました。 部落の古老は、こんなにまでなるとは、とても考えられなかったと、賑やかな頃の話をしてくださいました。

 小学校は古い建物 (木造) で、屋体のないのが自慢の一つ。 雨降り、冬季間は教室でドタバタと隣の教室に気がねしながら……。 もう一つ、校外交通自治班という組織があって、泉川駅周辺の大掃除や、通過する乗客に春は草花 (スズラン)、 秋は季節の虫 (キリギリス) をプレゼントし、その活躍ぶりはNHKテレビやラジオで紹介された事は、ご承知の事と存じます。 泉川駅より1200米です。

 中学校は昭和31年4月1日、泉川中学校 (単級) 泉川小学校に認可されると沿革史に書かれている。 それ以前はどうであったか。 こんな調査をしています。 32年2月現在、泉川中より他校へ通学している者調べ、釧路国標茶中へ1年生〜3年生38名、 上西春別中へ1年生〜3年生8名、光進中へ1年生〜3年生2名、計48名  こんな状態から、とりあえず小学校教室を借用し授業開始となりました。

 現校舎は31年12月15日竣工、翌年4月より新校舎で授業、生徒一同どんなに嬉しかったことか。 生徒数も33年より36年頃までピーク時で61名を数えましたが、その後は小学校同様、次第に減少しはじめました。 昨年待望の3学級認可、教頭さんも命課され、教授陣も一段と強化されました。 でも、教室はもともと二教室を3つに仕切っただけに、とても狭く、屋体もない不便さでした。
 併置校とはいえ、小学校校舎から800米も離れ、校長先生が行ったりきたりのご苦労は大変なもの、 職員会議も交替で場所を移動するなど、話だけでは、ちょっと想像ができないだろうと思います。 この3月15日には、数多くの思い出を残し廃校式を催し、部落上げて惜別の会を開くことになっています。


  ■平成元年4月29日の泉川駅

 JR釧路支社発行の 「鉄道百年の歩み」 によると、「泉川駅」 は、昭和59 (1984) 年2月1日に荷物取り扱いを廃止、 昭和61 (1986) 年11月1日、ついに無人化される。 駅長は17代続いた。
 翌昭和62 (1987) 年4月、国鉄の分割民営化を経て、平成元 (1989) 年4月29日に標津線が廃止され、鉄路とともに駅が閉じた。

 その日、私は久しぶりに泉川を訪ねた。 記憶では、昭和49 (1974) 年3月の泉川を離れて以来の15年振りの来訪だったと思う。 思い出の 「泉川駅」 の最後を見届けようと、根室市から車を走らせた。

泉川駅 最後の日の写真集。泉川駅構内の全景 左側に上りのホームがあった。(クリックすると 拡大します) 泉川駅 最後の日の写真集。かつての住宅から見た泉川駅舎。(クリックすると 拡大します)

 標茶行きの午後1時59分の列車 (キハ40 122と129の2輌編成) を見送ったが、さらに寂れた泉川市街地の方に愕然とした。 ただ、自分たちが住んでいた住宅は、大きく改造されながらも残っていた。 なんと、家の前が舗装ではないか。 周囲の道路は、全部舗装化されていた。
 駅舎は、殆ど変わっていなかった。 ただ、線路は単線で、かつての上りのホームは、四角い鉄骨を残して撤去されていた。 というか、上りのホームは、石造りの土盛りではなく、後で作られた板張りのホームだったことに気付いた。

泉川駅 最後の日の写真集。泉川駅舎 ホーム側(北側)。(クリックすると 拡大します) 泉川駅 最後の日の写真集。泉川駅舎 入り口(南側)。(クリックすると 拡大します)

 空白の15年間に起こった泉川駅の様子は、残念ながら文献でしか、分からない。 ただ、小中学校が廃校となり、教員と、その家族が一斉に引き揚げたあと、さらに致命的に過疎が進んだことは、間違いない。 上りのホームはいつ無くなったのだろうか? 「彩雲鉄道 標津線56年の歩み」 に掲載された昭和55年6月の駅舎には、まだ残っていた。 おそらく、無人化の際に交換設備も撤去されたのだろう (未完)。


泉川駅 最後の日の写真集。西春別側から列車がホームに。(クリックすると 拡大します) 泉川駅 最後の日の写真集。標茶に向かう列車 手前の線は貨物積降用だった。(クリックすると 拡大します)


  【主な参考文献】
  • 標津線標茶線全通記念絵葉書/建設要覧 (昭和12年11月 鉄道省北海道建設事務所発行)
  • 職員用最新鉄道路線図 (昭和27年初版 昭和38年6月改訂27版 交通協同出版社発行)
  • 釧路鉄道管理局史:日本国有鉄道開通100年記念 (昭和47年10月 釧路鉄道管理局発行)
  • 釧路機関区85年史 (昭和62年3月 国鉄釧路機関区発行)
  • JR釧路支社 「鉄道百年の歩み」 (平成13年12月 北海道旅客鉄道株式会社釧路支社発行)
  • 彩雲鉄道 標津線56年の歩み (平成元年11月 根室市/中標津町/別海町/標津町/標茶町発行)
  • 新根室41号 祝標津線開通記念 別海村/標津村紹介 (昭和9年10月 新根室社発行)
  • 西春別農業協同組合設立20周年並事務所店舗落成記念誌 (昭和43年10月 西春別農業協同組合発行)
  • 泉川小中学校廃校記念誌 (昭和49年3月 泉川小中学校統合推進委員会発行)
  • 上西春別小学校創立50周年記念誌 (平成2年3月 上西春別小学校創立50周年記念協賛会発行)
  • 泉川開拓50周年記念誌50年のあゆみ (平成11年10月 泉川開拓50周年記念協賛会発行)
  • 別海沿革誌 [旅路] 地域編/総集編 (楢山満夫著 平成17年9月 自費出版)
  • 私の国鉄50年 (澤田三郎著 昭和50年8月 自費出版)


  あとがき

 先行公開版は、平成23 (2011) 年に私家本として編纂した父親の遺稿集のうち、泉川の関連部分を流用し、加筆修正したものです。 とくに新たに入手した資料により、新事実がいくつか明らかになったため、泉川駅を中心に再編しました。 きっかけは、今春廃止される花咲駅の駅史稿を編纂しているうちに、 強い思い入れのある泉川駅史も編纂しようと、平行して作業を進めていたものです。

 編纂途中ではありますが、「駅は皆なのものだ」 という理念を早く伝えたいため、 標津線標茶線全通記念絵葉書/建設要覧を斡旋していただいた豊文堂さんのHP上で、この時期に先行公開を決めました。

 完全版の駅史稿については、平成31 (2019) 年3月、 長男の小学校卒業に合わせた形で公開予定の 「泉川小学校の思い出 まことのみちをきわめたか」 (仮称) に、 付録として収録する構想を持っています。 泉川駅に関する情報を、さらに追加します。

昭和45年頃の泉川小学校。(クリックすると 拡大します)

                                                 (2016年2月1日掲載)


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